「道徳の系譜(ニーチェ)」の論理性と芸術性

題名は論理性と芸術性になっているが、単なる読書感想文に終わってしまうかもしれない。特に芸術性に関しては、まったく見出せなかったので、触れることができないかもしれない。
この本の題名は「道徳の系譜」である。「系譜」とはなにか?広辞苑によると「物や人のつながり」だそうだ。ニーチェは道徳のつながりを説明するために、歴史的分析法を用いた。具体的に言うと、まずある物事の起源を原始時代から述べて、その物事の本質を見出す。そしてそれの成り行きを時間軸に沿って説明し、現代においてのそれの意義を結論付けるのだ。ここで、カール・マルクスとアドルフ・ヒトラーに目を向けてみよう。二人とも、ドイツ出身の世界に絶大な影響を与えた人である。また、二人ともその学説を歴史的分析法を用いて説明しているのだ。これは単なる偶然なのか?


マルクスは彼の主な学説―科学的社会主義を原始時代から工業革命以降の時間軸に沿って説明している。彼は生産力の発展が歴史の推進力であるとした。社会には生産関係と生産力の二つが存在し、その二つの矛盾によって社会の革新が起こるというのだ。例えば、原始時代では生産力が著しく低く、ある集団のメンバー全員で力を合わせないと生き残れなかった。それゆえ生産資料(いわゆる財産)がその集団の共有財産であった(これが原始時代の生産関係である)。しかし、科学技術の進歩により生産力が向上すると同時に、原始的な貨幣、市場という概念が出現し、私的財産が現れるようになった。そのため社会は裕福なものと貧しいのもので二分化され、それによって社会地位にも差ができ、社会は原始社会から封建社会へと進んだのだ。同じようなことは、工業革命以後の資本主義社会の形成でも見られる。そこでマルクスは発展に応じて、原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→共産主義と社会が段階的に発展していくとした。そして、その資本主義の究極の発展により、社会が弁証法的に否定の否定がなされ、ふたたび、共産制に転ずるというのがマルクス主義の基本理論である。弁証法的唯物論(史的唯物論)では、生産関係(下部構造)によって、社会形態(上部構造)が決まり、下部構造が変われば上部構造も変わると考えた。彼は、歴史的にはこの関係を一方向的な図式で捉えたのだ。
また、ヒトラーは彼の有名な著書、ナチスのバイブル-「わが闘争」のなかで歴史的分析法を用いて自分の主義主張を説いている。まず彼は著書の中で「歴史教育の目的は決して歴史上の日付や事件の暗記や棒読みをすることではない。歴史を学ぶということは、歴史的事件としてわれわれの眼に見えるものを実際に引き起こした原因としての力を発見し、見出すことである。」と述べている。つまりに彼にとって、歴史は大衆操作の道具の一つでもあるのだ。また、彼は歴史的観点からダーヴィンの進化論も交えて、なぜゲルマン民族をはじめとするアーリヤ民族が優秀で、ユダヤ人、黒人などは劣等人種について述べている。その結果、国家の最重要課題はその国民の人種の優等性を保つことであり、「ついには、最も優秀な人類がこの地上を獲得する」としている。
私は、これは偶然ではなく、必然的結果だと考えるのである。三人の共通点として、皆絶大な支持を受け、多くの支持者がいることがあげられる。つまり、三人の意図する大衆は若干違うかもしれないが、彼らの学説は例外なく、学者以外の人々の人気を得ている。ニーチェに関しては、現代では支持者があまりいないかもしれないが、日本でも戦前特に20世紀初期においてはいわゆるインテリの間でかなりの人気があったそうだ。ゆえに、私は歴史的分析法は、大衆受けする論述法だと考えるのだ。大衆受けするということは、同時に学問的には論理性に欠ける危険性があるといっていいと思う。ヒトラーは「わが闘争」のなかで大衆操作についてこう書いている「宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その目的は大衆に理論的な正しさを教えるために、心理を客観的に探求すべきではなし絶えず、自己に役立つものでなければならない。その作用はいつもより多くの感情に向かい、いわゆる知性に対しては、大いに制限しなければならない。」。歴史的分析法は大衆には納得しやすい論述法かもしれないが、そこに論理のわなが隠されているかもしれないのだ。
まず、歴史的分析法は歴史上の事実を土台としている。しかしそれは一般的に社会に共有されているものではなく、学者のなかでもさまざまな学説があるほどだ。歴史上の事実を用いることで、一般の大衆は反論もできずに、ただその事実の鵜呑みにするしかない。また、歴史上の事実というものは多くのバージョンが存在するもので、その中から自分の学説の支持材料となるものをひとつ上げればよいのだ。例えば第一部「善と悪」「よいとわるい」のなかで、ニーチェは「よい」を表示するさまざまな言葉の語源を元に、「よい」のは「よい人」自身で、その人たちは貴族などの上級社会の人々であると説いた。「恐らく最も多くの場合、単に彼ら(貴族的な人間)が力において卓越しているということから自分たち自身に(有力者、支配者、命令者という)呼び名を与え、またはこの卓越ということに対する最も明らかな目印から、例えば富者、有産者という呼び名を与える。」その例として、ニーチェは「ξσζλοζ」と言う言葉を上げて、貴族的な人間がその言葉を使うことによって、それが語源の「存在するもの」「実在性を持つもの」から、「誠実なもの」になったとしている。しかし、この例は一般教養の範囲外であるのは明らかであり一般の大衆にとってはこれを信じるしかないのである。また、その言葉がそれぞれの時代での意味を考えるとき、用いられるのはその時代の文章である。その文章の解釈が単に一種類しかないということはありえないのである。そこでニーチェは自分に有利な解釈の仕方ができるのだ。つまり、歴史上の事実を土台としていることは、その論理性が疑わしいものである確率を高めるのだ。
また私は歴史的分析法は科学的な分析法ではないと考えるのだ。歴史的分析法は以前の事実を元に、現在または未来での事実を表している。そこで数学的帰納法を見てみよう。数学的帰納法とは自然数全体に関する命題P(n) (n∈N) が真であることを証明する論法である。
1.P(0) は真である。
2.任意の自然数 k に対し,P(k) が真であれば,P(k+1) も真である。
この 2 条件が成立するならば任意の自然数 n について P(n) は真である。
歴史的分析法はあるkまで正しいと証明しただけで、すべてのkについて正しいとするのだ。一般てきに人文科学はそれほどの厳密さを必要としないとしているが、追求してくると歴史的分析法は科学的でないのはあきらかだろう。
最後に歴史的分析法の最も大きな欠陥とは、過去の歴史に目を向けるあまりに、現在または未来の状況をほぼ無視していることである。例えば、ニーチェは、第二部の「負い目」「良心の疚しさ」その他のなかで、刑罰の系譜について述べている。「人類歴史のきわめて長い期間を通じて、悪事の主謀者はその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提の下に、刑罰が行われることもなかった。-むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行われたのだ。」また、「苦しませることが最高度の快感を与える」から「それが負い目の補償となりうるのである」、そして「真の良心の呵責は犯罪者や受刑者の間においては極めてまれな事柄であり」刑罰の本質は復讐である、とした。しかし、なぜ過去の刑罰の起源により、刑罰の現代における意義が決定されるのだろうか?社会は常に変化しているものであり、その中の物事の意義もその時代によってまちまちであると考えたほうが自然なのではないだろうか。実際ニーチェ自身も「負い目」「良心の疚しさ」その他の12章の中でこう書いている「ある物事の発生の原因とそれの究極的効用、その実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、「天と地ほど」隔絶している。これまでの意義や目的は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。」。刑罰の起源が他人を苦しめる快感とか、被害に対する怒りなどであるとしても、それが現代における刑罰の効用とはまったく関係ないのだ。実際現代の司法システムは、さまざまな問題を抱えながらもうまく機能していると思うし、犯罪の抑止に役立っていると思うのだ。このような疑問は、「正義」「負い目」「よいとわるい」などの部分でも強く感じた。
さて、本書の他の大きな特徴として、括弧、棒線、議論の跳躍が非常に多いと思う。ひとつのセンテンスのなかで、単語の意味を詳しく説明するため、何回も括弧を付けて話が展開されている。また、文章のいたるところに棒線を付け加えることによって、いわゆる脱線した話をしている。しかも、章の構造も連続的ではなく、一つの話題が四章ぐらいの分量だとすると、その中に3章分の違う話をいれて、その話題を分割するのだ。これはなぜなのだろうか?もちろん、単純に考えるとニーチェの癖だと考えることもできる。彼の頭の回転があまりにもはやく、論理的な文にすることができないということだ。しかしそれは事後に改訂できる事だと思う。ここで私はヒトラーの論理の飛躍を思い出してしまう。ヒトラーは10個の物事の中にひとつだけ欺瞞の事柄をいれていく、そしてそれを何回も何回も繰り返すのだ。そのうちになぜが議論の結果がとんでもないことになっている。これはかなり変わった見方かもしれないが、ニーチェがこういう書き方をするのは、読者に自分の論理のぼろを発見されたくないからなのではないだろうか?すくなくとも、こういった書き方のため、読者が理解しづらくなったのは確実である。括弧、棒線等をはずして読むと割りと読みやすい文章なのに、意図的に難しくしている感じがするのだ。単なる翻訳などの問題であるのかもしれないが。
そろそろ本書の内容についてみてみよう。「禁欲主義的理想は何を意味するか」の中で、「情事を(その道具、すなわち女人たる《悪魔の道具》をも含めて)実際に個人的な敵として扱ったショーペンハウアーと言えども、いつも上機嫌にいられるためにその《敵》を必要としたということであり、怒気に満ちた、蒼黒い言葉を愛したということであり、激情から憤るために憤ったということであり、もし彼に敵がいなければ、ヘーゲルも女も官能も、生存や生存への意志全体もなかったとしたら、彼は病気になり、厭世家になったであろう――なりたいとどんなに願ったにしろ、彼は病気でもなく、厭世家でもなかった。
それら敵がいなかったとすれば、ショーペンハウアーは決して生存に留まりはしなかった。これは賭けてもいい。敵がいなくば彼は生存から脱走したであろう。しかし、彼の敵が彼を引きとめたのだ。彼の敵が彼を生存へと誘惑した。彼の憤りは、古代の犬懦派(シニシズム)とまったく同じように、彼の清涼剤となり、彼の休養であり、彼の吐気止めであり、彼の幸福であったのだ」とニーチェは説いている。つまり敵によって、人はその人生を有意義に過ごせるというのだ。私はここでの敵を人生の一種の困難だと思うのだ。人はすべてが自分の思いのままにできる社会では生きていけない、少なくとも有意義に暮らしていけないという考えには僕も賛成である。映画「マトリックス」のなかでは、真実の世界はコンピュータに支配されていて、私たちが通常いる世界は単なるプログラムに過ぎないということになっている。そのなかで、昔はコンピュータもそのプログラムを私たちが意のままに暮らせるようにしていたというのだが、それでは人間がだめになってしまって、生存できなくなったというのだ。仕方ないので、コンピュータはプログラムを改良し、多少の試練を人類に与えたいうのだ。この問題については直感的にもわかる物だ。勉強、恋愛どのようなことでもライバルがいて、いろいろな想定外のことをやってくれたほうが、人のモチベーションは上がるものである。当然困難があまりにも大きくなると、人は破綻してしまうかもしれないが。自分の理想とはまだ違う部分がある、それゆえその理想に近づくために人は努力する。最初から理想の状態であると、これ以上の成長が見込めなくなり、人間がだめになってしまうのも自然である。
本書をはじめとするニーチェの思想は現代社会に絶大な影響を与えた。ニーチェの「神は死んだ」の宣言により20世紀の哲学が始まったといわれるほどだ。学者のみならず、一般の知識人のなかでもニーチェの支持者は多い。昭和初期の日本においても、ニーチェは絶大な人気があったといわれている。ヒトラーもニーチェの熱狂的ファンだったそうだ。実際「わが闘争」でもみられるように、彼の主張はニーチェに多い影響され、また彼は大衆向けにニーチェの学説を利用している。始めてムッソリーニにあったときニーチェ全集をプレゼントしたというのだから、その熱狂ぶりがよく分かる。現代の日本においても、酒鬼薔薇聖闘がニーチェの支持者であり、逮捕されてからも善悪などは存在しないなど言っていたのである。ほかにも、ニーチェはいろんな凶悪な犯罪と関係があるといわれている。この原因は、ニーチェの学説の特徴にあると思う。学説の導出部分は難解で複雑だが、結論は単純明快であるのだ。しかも、その結論は、善悪はないとか、神は死んだとか、かなり刺激的で、人間の心の底を揺さぶるものが多いのである。それゆえ、あまり教養がないひと、学問に興味がない人でもニーチェに関しては興味を持ってしまうのだと私は考えるのだ。
いままではできるだけ理性的に文章を書いたつもりであるが、これからは感性を中心に書くことにする。私はこの本を読む前から、いろいろなニーチェに対する意見を聞き、ニーチェの著作には毒が入っているとしった。それゆえ私はかなり批判的に本書を読んだつもりである。しかしながら、いつの間にかニーチェの学説に共感している自分に気がつくのだ。特に第一部の14章の「貴方」とニーチェの会話の部分は、まるで本当に自分とニーチェがはなしているかのように思えた。この社会における価値の定義、理想とは何か、正義とは何か、善悪とはなにか、これらの問題はニーチェの著作を読む前にも心の中で潜在的に考えていたのではないかと思った。しかし自分はそれをこうにする勇気がなく、その代わり社会の表層的な問題に対して疑問を抱いていた。ニーチェはなぜここまで、人類の最も深いところまで批判できるのか?こういった考えはなぜ生まれるのか?やはり、ニーチェは天才だからなのだろうか。
ニーチェは本書の中で、多くのものを批判している。例えば、彼によると、善悪は存在しないし、正義も良心も幻想に過ぎないし、刑罰も法律も一種の報復だし、宗教は単なる恐怖の表れなのだ。では、かれは何を肯定しているのか?彼はどのような道を歩めばよりよい未来に進めると考えるのか?残念ながら、この本の中では、私は答えを見つけることができなかった。たぶん、彼はほかの著作の中で建設的な意見を述べているのかもしれない。しかし、彼の学説が単なる批判に対する批判で終わってしまったのなら、彼は無責任だといってよいだろう。もちろん、彼の学説はあまりにも重たく、彼一人では問題提示が限界であり、ほかの学者が彼の残された任務を完了するという見方もできるが。
もし、ニーチェが今まだ生きていたとすれば、彼はどんな本を書くのだろうか?そして、現代社会にニーチェのような人間は誕生しうるのだろうか?また、私たちは本当に彼の言いたいことの正しく理解しているのだろうか?私はかれが人類の奇跡的存在だと考える、また彼のような人間はもう二度とこの世には存在し得ないと考えるのだ。正直なところ、私は二回ほどこの本を読んだがいまだに分からない部分が多く、このようなレポートを書いていいのかと困惑している。また、このような善悪の意義を考えることにいったいどういった意義があるのかもよく分からない。もし彼の学説が正しいとわかってところで、われわれに何ができようか?苦難をのり越えて獲得した理性を捨てて、また原始人の本能に戻るというのか?明らかにそれは不可能である。人類は自転車で上り坂を上がっているようなもので、後戻りは決してできないと私は考える。たとえ、人類の存在の意義がないとしても、人類の根本的な部分が誤りだったとしても、人類はその道を進み続けると思うし、その道を歩み続けなければならない。ではニーチェは私たちに何を与えたのだろうか?小さな羅針盤なのではないだろうか?

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.